日本の労働市場という巨大なバグと、合理的な最終解としての「戦略的・働かないおじさん」

【退職まで2,995日】

日本で「人手不足」が叫ばれて久しい。帝国データバンクの調査によれば、正社員が不足していると回答した企業は51%を超え、非正社員においても約3割の企業で枯渇状態が続いている。人手不足倒産も年間300件を超える過去最多ペースで推移しているという。

しかし、ここで一つの重大な矛盾が生じる。経済学の初歩である「需要と供給の法則」に従えば、労働力の需要が供給を上回れば、その価格である「賃金」は上昇するはずだ。だが、日本の現実はどうか。

目次

日本の賃金統計から考える

厚生労働省の毎月勤労統計調査を見れば、名目賃金こそわずかに上がっているものの、物価変動を加味した「実質賃金」は2022年以降、20ヶ月以上も連続でマイナス圏に沈むという異常事態を記録した。なぜこんなことが起こるかといえば、答えは極めてシンプルだ。

日本の企業が求めているのは「人材」ではない。「従来の安い賃金で、文句も言わずに高品質な労働を提供する都合のいい奴隷」が不足しているだけだからだ。

さらに、この期に及んで政府や経済界が「就職氷河期世代の支援・活用」などと言い出している。1993年から2004年頃にかけて、自らの人件費抑制と既得権益層の保護のために新卒採用の門戸を閉ざし(大卒就職率は2000年に55.8%まで暴落)、約1700万人とも言われる一世代を丸ごと非正規と低賃金の沼へと突き落とした張本人たちが、労働力が枯渇した途端にすり寄ってくる。自己責任論で切り捨てられ、本人の実力にあった機会を与えられなかった氷河期世代からすれば「知らんがな」の一言だろう。

米国の労働市場に見る「健全な暴力と報酬」

現在、私はアメリカで働いているが、こちらの労働市場のダイナミズムは日本とは別次元にある。一言で言えば、徹底した市場原理の貫徹だ。

まず決定的に違うのが「人材の流動性」である。米国労働統計局(BLS)の雇用動態調査(JOLTS)を見ると、アメリカの月間の自発的離職率(Quits rate)は2.2〜2.5%前後で推移している。つまり年間で約25〜30%の労働者が、より良い条件を求めて自ら会社を辞めている計算になる。一方、厚生労働省の雇用動向調査による日本の転職入職率は年間わずか9〜10%程度(そのうち正社員から正社員への移動はさらに少ない)。勤続年数の中央値を見ても、アメリカの「約4.1年」に対し、日本は「約12.3年」と3倍もの開きがある。

比較項目アメリカ日本出典・備考
実質賃金の推移(過去30年)約48%上昇約3〜4%増(ほぼ横ばい)OECD統計(1991年〜)
自発的な転職・離職率(年間)約25〜30%約9〜10%米BLS / 厚労省 雇用動向調査
勤続年数(中央値)約4.1年約12.3年米BLS / 厚労省 賃金構造基本統計
時間当たり労働生産性89.8ドル(OECD 6位)52.3ドル(OECD 30位)日本生産性本部(約1.7倍の格差)
仕事への熱意(エンゲージメント)約32〜34%約5〜6%(世界最下位級)米ギャラップ社調査

アメリカ、特に現在ホットなAI関連などの領域では、給与や待遇に少しでも差があれば、優秀な人間は躊躇なく他社へと移る。労働者は「いつでも辞められる」というカードを最大の交渉材料として、自らの市場価値を最大化させているのだ。

企業側もそれを熟知しているため、優秀な人材を繋ぎ止める(リテンションする)ために必死だ。ベースサラリーの引き上げはもちろん、RSU(制限付株式単位)の追加付与など、数千万円〜億単位の報酬パッケージのアップデートに余念がない。

その代わり、事業の優先順位から外れた不採算部門や、パフォーマンスの出せない領域は容赦なく切り捨てる。「At-will雇用(随時解雇)」が基本のこの国では、レイオフは日常茶飯事だ。

実は、私がアメリカで住んでいる家の大家も先日レイオフされた。しかし、話してみると、そこに悲壮感はない。私がレイオフの話を聞いて「I’m sorry to hear that.(それはお気の毒に)」と言うと、彼からは「Why sorry??(なんで残念がるんだ?)」と返ってきた。むしろ手厚い退職金が出てしばらくバカンスだよ、という意味だ。

もちろん、雇用状況は刻一刻と変化するが、現在、米国の平均失業期間は中央値で約9〜10週間(約2ヶ月強)と短く、ジョブ型雇用が確立された流動的な市場があるため「すぐに次の職が見つかる」という確信があるからだ。さらに、米国のまともな企業がレイオフを行う際、数ヶ月分の基本給やCOBRA(医療保険継続)の補助など、極めて手厚いセベランス(退職パッケージ)を積むのが通例である。

この「いつでも切られるリスク」と「手厚い保証および高給を得るチャンス」のイーブンな取引が、上記の表にある通り日米で1.7倍以上もの労働生産性の差を生んでいる。資本も人材も成長産業へと猛スピードで再配置され、経済全体の新陳代謝が維持される米国市場。だからこそ、S&P500に連動するインデックス投資が最強の資産形成術として機能し続けるわけでもある。

「スマイル0円」の呪いとブルシット・ジョブ

翻って、日本の労働市場はどうなっているか。ここには「価値と報酬の完全な逆転」という致命的なバグが存在する。

象徴的なのが、日本のマクドナルドをはじめとする飲食・サービス業の現場だ。米国のファストフード店の店員は「Minimum Wage(最低賃金)にはMinimum Effort(最低限の努力)で応える」という資本主義の原則に極めて忠実だ(カリフォルニア州ではファストフード業界の最低賃金が時給20ドル=約3000円に引き上げられたが、それでも接客クオリティは相変わらずアメリカンである)。無愛想で、オーダーミスも日常茶飯事だが、誰も文句は言わない。大体、家族全員分の注文をすると、50%くらいの確率で中身が違ったりする。そういう価格のサービスだからだ。

一方、日本のマクドナルドはどうだ。地域最低賃金スレスレで働くアルバイトが、秒単位の正確なオペレーションをこなし、店内を清潔に保ち、完璧な敬語と笑顔で接客している。「スマイル0円」などというキャッチコピーがあったが、あれは労働者の真面目さと責任感を無料で搾取している構造に他ならない。消費者の異常なまでの完璧主義とクレーム文化が、現場に「低賃金・高品質」の維持を強要し、結果として経営陣の「賃上げしなくても現場が勝手に回る」という怠慢を許している。

ここで、人類学者のデヴィッド・グレーバーが著書『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』で提唱した概念を引こう。グレーバーは、現代社会には「その仕事が消滅しても社会に何の悪影響もない、どころか本人すら無意味だと気づいている仕事」が大量に存在すると指摘した(YouGovの調査では、先進国の労働者の最大37%が「自分の仕事は社会に何の貢献もしていない」と回答している)。彼はこれを以下の5つに分類した。

  1. 取り巻き(Flunkies): 上司を偉そうに見せるためだけに存在する仕事
  2. 脅し屋(Goons): 競合他社がいるからという理由だけで存在する攻撃的な仕事(過剰な法務やPRなど)
  3. 尻ぬぐい(Duct-tapers): 組織の欠陥を根本解決せず、一時しのぎで繕うだけの仕事
  4. 書類穴埋め人(Box-tickers): やっていないことを「やっている」と見せかけるための報告書作成などの仕事
  5. タスクマスター(Taskmasters): 他人に無駄な仕事を割り振り、管理するためだけの仕事(不要な中間管理職)

そして彼は、「仕事が社会的に有益であればあるほど、その報酬は低くなる」という強烈な逆説を提示した。

今の日本企業を見渡せば、このブルシット・ジョブのオンパレードではないか。エッセンシャルワーカーが時給1000円台で社会のインフラを支える一方で、大企業のオフィスでは、誰も読まない社内資料のフォントを揃え、責任を分散させるためだけのスタンプラリー(稟議)を回し、社内政治の根回しに奔走するホワイトカラーが年収1000万円を受け取っている。

バグだらけのゲームにおける最適解:「働かないおじさん」

この「解雇規制が異常に厳しく」「年功序列の残滓があり」「ブルシット・ジョブが高給で保護されている」というバグだらけの日本型雇用システムにおいて、個人の生存戦略としての最適解は明白だ。「働かないおじさん」になることである。

感情論を抜きにして、ゲームのルールとして考えてみてほしい。日本の労働法制下では、正社員を「能力不足」や「生産性の低さ」を理由に解雇することは極めて困難だ。つまり、毎日定時に出社し、コンプライアンス違反さえ犯さずに席に座っていれば、無敵の防御力が保証される。

さらに、ジョブ型ではなくメンバーシップ型(属人給)であるため、必死に努力して他人の2倍の成果を出したところで、給与が2倍になることはない。むしろ「あいつは仕事ができる」と認識されれば、働かない人間の分の仕事まで回ってくるという「努力の罰ゲーム」が待っている。

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実際、米ギャラップ社(Gallup)の調査によると、日本の労働者の「仕事への熱意(エンゲージメント)」はわずか5〜6%であり、世界120カ国以上の中で常に最下位クラスを彷徨っている。労働者の94%が「やる気がない」のは、日本人が怠惰だからではない。「真面目に働いても報われず、手を抜いた者が一番得をするシステム」に対して、労働者が極めて合理的に適応した結果に過ぎないのだ。

ならば、投入する労働エネルギーを極限までゼロに近づけ、年功序列の給与カーブの恩恵だけを享受するのが、投資対効果(ROI)として最も正しい。

私自身の生存戦略と、カウントダウン

誤解のないように言っておくが、私は今、ここアメリカで自分の仕事に全力で取り組んでいる。現在携わっている領域が、知的好奇心を強烈に刺激するホットな研究分野だからだ。アメリカのダイナミックな環境の中で、面白いからやる。自分の市場価値を高めるためにやる。ただそれだけの理由だ。

だが、私自身も日本の企業システムと無縁ではない。いずれ日本へ戻り、もし将来的に会社の都合で全く興味のない部署へ異動させられたり、前述したような「書類穴埋め人」や「タスクマスター」のようなブルシット・ジョブをあてがわれたりしたらどうするか。

アメリカの労働市場なら即座に他社へ移る(あるいはレイオフされる)ところだが、日本の雇用システムというリングの上に引き戻されたなら、選択肢は二つに一つだ。即座に辞表を叩きつけて退職するか、あるいは日本の歪んだルールを逆手に取り、一切の情熱をシャットダウンして徹底的な「戦略的・働かないおじさん」へと転生するかである。

会社に忠誠を誓う時代はとっくに終わった。もし後者を選ぶなら、日本の強固な解雇規制を盾に、会社からの給与は単なる「ベーシックインカム」と割り切る。最小限の労力で雇用を維持しつつ、浮いた脳内リソースと時間のすべてを自らの資産運用と個人のプロジェクトに全振りするだろう。アメリカでは通用しないこの戦術も、バグだらけの日本のシステムにおいては極めて合理的なハックとして成立してしまうのだ。歪んだシステムには、歪んだ最適解で対抗するまでである。

いずれにせよ、私がこの資本主義のラットレースに付き合う時間は限られている。ゴールはすでに明確に設定されており、そこに向けて淡々とインデックス投資を積み上げていくだけだ。

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